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地下鉄サリン事件のこと(渡辺脩弁護士)

Source: http://www.s-a-t.org/sat/sarin/siryo_syoukai/watanabe.html
検察側は、いちばん立証しやすくて関心を集めている事件ということで、たぶん地下鉄サリンから立証をはじめたと思う。

現場の遺留品について言えば、千代田線霞ヶ関駅にまるまる一袋のものが残されていた。
地下鉄の駅の人から警察にそれが任意提出されて、警察がその領置調書をつくった。
検察側が領置調書を証拠として取調べるよう請求してきた。
その領置調書には、遺留品について「濡れた新聞紙様のもの」としか書いていなかった。
そこで弁護団は、領置調書をすぐ証拠として取調べることに反対して、それを作成した警察官の反対尋問を要求した。
検察側はその警察官の証人尋問をやり、渡辺団長が、反対尋問を担当した。
じっさいに領置したものは新聞紙に包まれた袋もあるわけです。
しかし、その袋のことが書いてない。
「その袋は領置しなかったのか」と尋問すると、いや、領置はしている、と言う。
記載と違うじゃないか、と言うと、それは認めている。
現場でいろいろな混乱した状況があったかもしれない。
だけど、かりにその時点で食い違いがあっても、手続き的にはちゃんと穴埋めして補正するべきですよね。
それじゃないと、現場から何が採取されたかわからないわけだから。
現場の遺留品についてドキュメントが存在していないというのは、はじめから何も記録が出ていないということなんです。

現場で物が押さえられて、それは20日のうちに自衛隊の大宮化学学校に運ばれて仕分けされているということになっています。
警察側の証言は出ていますが、自衛隊側の証言はありません。
仕分け作業をしている写真も何枚か写っています。
その写真の場所が自衛隊の大宮化学学校であるかどうか写真自体からではわかりません。
現場は大混乱しているんだから、細かいことを言ったって無理じゃないかという声は確かにあります。
しかし、仕分け作業をするについて、どういうものを、誰が、いつ、どういう手段で警視庁から自衛隊化学学校に運んだのか、そして化学学校のどの部屋でで、何時何分から誰が仕分け作業を、どのようにはじめて、いつ終わったのかという経過を記録する必要はあるということです。 遺留品というのは、新聞紙に包んだり、袋に入れたり、その袋も何重にもなっていたわけだから、そういうものの表側の一枚を剥いだら何が出てきたか、その下はどうなっていたかを次々に写真に撮ったりしてドキュメントをつくる必要がある。
その種のドキュメントが仕分け作業の段階でないんです。
ほんとにない。最後の段階で何が出てくるかわからないけど、いまは何もない。
警視庁科学捜査研究所の化学斑の責任者がサリンの鑑定書をつくったことになっているから、そこ到達するまでの全過程がドキュメントで埋め尽くされないといけない。
記録としては「写真があります」というんだけど、写真だけでは、対象物の大きさも容量も、濡れているのかも、何もわからない。
で、マスクをつけた人が、二人ぐらい仕分け作業をやっている。「この二人は誰だ」と聞くと、「誰かわからない」というだけである。
とにかくその品物が警視庁に押収され、自衛隊の化学学校に運ばれて、いろいろ仕分け作業され、それがふたたび警視庁に戻って、鑑定に回され、そして「鑑定の結果、こうなりました」という、モノの特定と鑑定にいたる経路に関するドキュメント」が一切ない。
ところが検察側は、その経過は鑑定書に書いてある、と言う。
しかし、鑑定書に書いてある経過が客観的な経過に符合するかどうかをチェックする資料がないんです。
本来、現場に遺留されていたものと鑑定の対象がまったく一致していて、ほかのものが混じりこんだり、ほかのものとすり替えられる可能性がなかったという不動の記録が必要なのですが、その記録もない、証拠もない。
領置したものと鑑定したものの同一性を証拠となるべき記録によって保証しなければいけませんよ。
そういう点でいうと、こういうひどい例はちょっと見たことがない。
だから、「結果はサリンだ」と言われても、それが現場に遺留されていたものかどうか、をふくめて十分な証明がないことになる。

現場遺留品がサリンだったという鑑定資料として、千代田線霞ヶ関駅に一袋、丸の内線本郷三丁目駅に一袋がまるまる残っていた。
警視庁科学捜査研究所化学科責任者の安藤皓章証言では、事件が起きた3月20日午前9時半に調べられたのは、日比谷線小伝馬町駅と日比谷線霞ヶ関駅で採取された脱脂綿だという。
9時50分サリンだと判明した。
これをもとに、警視庁捜査一課長が、午前11時に毒物はサリンと発表した。
ところが、さきほどの千代田線霞ヶ関駅、丸の内線本郷三丁目駅のまるまる残った袋が鑑定されたのは、2ヶ月以上たった5月24日のことだった。
これだけの大事件で、もっとも肝心の毒物をこのときまで調べないのは、まずふつうではあり得ません。

小伝馬町駅で袋が外に蹴り出された。
蹴り出した後、萱場町で乗った人が二人亡くなっている。
これは毒物が入った現場遺留物を現場から除去した後に乗り込んだ人が亡くなっているという点で唯一のケースです。





注目点 (三浦執筆)


麻原裁判の模様を、弁護人の目から問題点を指摘している。常識的にいっても納得できる、説得力のある内容である。かつ、大手マスコミ情報には決してでない重要情報が満載されている。したがって資料の評価としても3に+を加えた。いまのところ最重要の資料といえるだろう。
この本は1998年に発刊された。そのあと、弁護団が、この手のものを発表していないのは残念。ワイドショーレベルの情報しか垂れ流さなくなってしまった大手マスコミは、報道ネタがないのが、なんだかんだとこじつけて弁護団を叩くばかりだ。この状況では、弁護団はうんざりして口をきく気にならなくなったとしても無理もない。しかし、中には大手マスコミのワンパターンな言い分に疑問をもつ人たちも少なからずいる。あきらめずに、気長に、ちょっとずつでも情報をだしてほしいものである。マスコミには期待できない。大手マスコミは商業主義に走りすぎだ。本来のジャーナリズムの意味を考えなおしてほしいものだ。真実を伝える態度があまりに不誠実だとわかる人にはわかる。そういう情報ばかり垂れ流されるとイライラしてくるのである。ボトムアップ情報の強みを持つインターネットでは現在、超ハイペースなインフラ整備が進行している。このままではそう遠くない時期、今後五年とか十年で、インターネットインフラ整備が光ファイバー網などの形で一定ラインをこえると同時に、新聞・テレビともに一気に駆逐されだすであろうことは明らかだ。文字も映像もすべてインターネットで安価でカバーできるのである。一部の人の考えや都合だけで独善的に情報をコントロールしようとするやり方は、時代おくれとなりつつある。


■いつサリンと判明したのか

まず気になったのが、警察が、3月20日の何時に毒物はサリン、とわかったのだろうか、ということである。
この本を読んでも、明確にははっきりしない。
だが、裁判では、だいたい次のような手順で判明したようである。

3月20日午前8時すぎ事件が起きた。
9時半ごろ、日比谷線小伝馬町駅と日比谷線霞ヶ関駅の脱脂綿が、警視庁科捜研で調べられた。
9時50分、サリンとわかった。
11時、警視庁捜査一課長が、サリンと発表した。

科捜研の鑑定の過程は、次のようになっていたという。
1、 遺留品が警視庁に押収された。
2、 自衛隊化学学校に運ばれ、仕分けされた。
3、 仕分けされたものが、再び警視庁に戻って、鑑定に回された。

とにかく一回、自衛隊大宮化学学校に回されたことになっている。
桜田門から大宮までの時間、仕分け作業の時間、大宮から桜田門に戻る時間はどうなっているのだろうか。
どうも、サリンとわかるのが早すぎるような気がする。
あまりに早すぎるので、渡辺脩と和多田進の対談でも、撒かれたものがサリンだということを、警察は知っていたのではないかと疑問を出している。

この疑問は、他の資料からも読みとれる。
たとえば、『極秘捜査』という、警察からの独自取材により麻生幾がまとめた本がある。ある意味では「本当の話」が書かれているといえる本だ。 

『極秘捜査』は、自衛隊の活躍にも焦点をあてている。
もし、不審物の仕分けのために、自衛隊大宮化学学校に回されたのなら、この本で触れていなければおかしい。
なのに、不審物が自衛隊大宮化学学校に回された、とは一言も出ていない。
ほんとうに自衛隊大宮学校で仕分けしたのか、大いに疑問である。

話が脱線するが、『極秘捜査』についてはさらにもう一点。

『極秘捜査』には、警視庁鑑識課員がホームで幾つかの不審物を押収し、科捜研に七つの不審物を持ち込んだ、とある。
日比谷線霞ヶ関駅から得た新聞紙に包まれたナイロン、築地駅の電車内から押収された三つのナイロン袋に残留していたガスを、ガスクロマトグラフィーで分析した。
午前10時半すぎ、サリンと判明した。

つまり、『極秘捜査』では、日比谷線霞ヶ関駅のナイロン、日比谷線築地駅の三つのナイロン袋を10時半すぎに検出となっている。
しかし、裁判では日比谷線小伝馬町駅の脱脂綿が9時半ごろ、日比谷線霞ヶ関駅の脱脂綿が9時53分に分析しているという点だ。 ずいぶん、違っている。
『極秘捜査』の記載が取材不足なのか、それとも別の真実を伝えているものなのか。
個人的には、別の真実を伝えているように思える。つまり、本来警察が秘匿するつもりであった情報を、うっかりポロッと漏らしているように見える。 アセトニトリルにまつわっても、同様の疑問が残されたままである。 

■なぜ小伝馬町で不審物が蹴り出されたあと、後の駅・茅場町で乗車した人が死んだのか

渡辺弁護士の見解では、電車内に濃厚なガスが残っていた、のではないかと推測している。

しかし、次のような情報もある。
現在進行中の裁判では、築地駅では不審物は押収されなかった、とされている。
では、築地駅で不審物が押収された、とする人は、何が押収された、というのだろうか。
これは、たった一つを担当したオウムの実行犯のみが罪に問われている理不尽さを意味している、と私は考える。
すべての真相が明らかにされる必要がある。
その上で、改めてオウムの罪も裁かれるべきであろう。

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