サリン事件への問題提起 サリン事件は、一般に信じられているような、「単純な事件」ではない!
●第一章 東京地下鉄サリン事件について
◆1 調査へのきっかけと調査の手応え 1995年3月20日、偶然、病気のため緊急入院したわたしは、同日におきた地下鉄サリン事件について、当時新聞にどのように書いてあったのか知らなかった。その後の新聞報道で、ビニール袋を傘の先で突っついて穴を開けサリンを放出した、とあり、そんなこと本当にできるのか、と思った程度である。 事件はオウム実行犯がナイロン・ポリエチレン袋にサリンを入れ、傘の先で突き刺し、地下鉄で撒いた、として裁判は進められていた。私もそう思いこんできた。 ところが、1997年秋頃になって、近くの図書館に置いてある読売、朝日、毎日の当時の新聞縮刷版を見る機会があった。 例えば読売には 「新聞紙に包んだ弁当箱のようなもの」 「直径、高さとも35センチ位の筒状の物が二重のビニール袋に包まれて」 「ビニールのひもで十文字に結わえられた縦、横二十センチぐらいの紙袋」 というような記載があった。ビニール袋とはあきらかに違うのである。 これはさらに調べてみる価値があると思い、以下の資料を読み、不審物の情報を中心にデータベースとして作成した。 ・公判の傍聴記録(独自の傍聴メモ) ・公判の傍聴記録(市販のもの) ・検察側公表情報 ・弁護側公表情報 ・朝日新聞 ・読売新聞 ・毎日新聞 ・東京新聞 ・産経新聞 ・日経新聞(日本経済新聞) ・共同通信 ・事件当時の週刊誌 このデータベースをもとに、問題点を明らかにした。 新聞記事については、単なる警察のリーク情報、もしくは単なる混乱情報ではないか、との疑問を持った人がいた。同様の疑問を持つ人がいるかもしれないから、改めて説明しておきたい。 まず、単なる警察のリーク情報ではないか、との疑問について説明する。各社の記事を読むと、警察からの情報もあるが、事件直後についてはそうではない情報もある。 ・事件被害者 ・被害者ではないが、現場に居合わせ、事件を目撃した人 ・消防庁 ・自衛隊 などから得た情報だ。 消防庁、自衛隊などは捜査機関である警察とある程度は協力関係にあるだろう。しかし、やはりあくまでも別組織であり、独自の災害現場の処理や調査もおこなっている。 次に、混乱情報と正しい情報をどう区別したかを説明したい。 警察が事件直後に発表した情報で、のちにうやむやとなってかき消えていく情報がある。そういうかき消えていくタイプの情報内容が、その他の複数の情報源の情報内容と明らかに一致ないし符合する、という場合がある。このような場合、それは単なる混乱情報とはいえないだろう。 それどころか、事件当時の初期情報は思い込みがないので、かえって事実を 「ありのまま」 に伝えている場合だってあるのだ。 また、地下鉄サリン事件に対する警察の捜査記録とその後の検察の法廷での動きは 「異例」や「異常」 という表現をとらざるを得ないものが多々あることもより疑問を膨らませる。これについては麻原弁護団・渡辺弁護団長からも指摘がされているとおりだ。 さて、不審物について徹底的な分析を行った結果、得た結論を先取りしていえば、オウム実行犯の証言はある程度信用できそうだが、それはそれとして問題は、起訴されたグループとは別の人たちも毒ガス撒布に関わっているのではないか、という、恐るべき疑惑が浮上した。 どちらかというとプロの匂いがする、そういう犯行痕跡や被害傾向に関しては初期報道の後、徐々に消えてゆき現在の検察ストーリーへと統一されていく。驚くほど多くの事柄が現在の検察ストーリーではうやむやにされ、しかも検察ストーリーだけではなぜそういうことがおきたか説明が付かないのだ。 繰り返して言っておくが、これはあくまでも上記手法によって、徹底的に分析した上での話しであって、気まぐれや思いつきで言っているのではない。 また、これら疑惑がどういうことを意味し、なぜ表沙汰にならないのか、私個人の中で推理がないわけではない。しかし今回の検証は終始地に足を着けて展開することを基本としており、また論点の混乱を避けるためにも今回はそこまで言及していない。 なおここでのオウム実行犯とは林郁夫、豊田亨、廣瀬健一、林泰男のことで、あまりしゃべっていない横山真人は含めていない。念のために言えば、井上嘉浩も含めていない。 |
◆2 麻原弁護団・渡辺弁護団長の危機感
日本の刑事裁判は、本来、事実を証拠に基づいて認定することが原則だ。しかしそうでないことが実は多い。とりわけその中でも麻原裁判は特に異常で、裁判所や検察の動きはどうも世論の圧倒的な予断と偏見に流され、雰囲気で押し進めようとするような、おかしなものになっている。 このような刑事司法の実状に対し、麻原弁護団弁護団長・渡辺脩弁護士は危機感を感じているようだ。繰り返しコメントを発している。
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◆3 地下鉄各線の死亡状況
まず、被害が出た地下鉄各線の死亡状況を記せば、次のとおりである。日比谷線北千住発中目黒行の死者が多いことは、誰が見ても一目瞭然であろう。 ・日比谷線北千住発中目黒行 死者8名 ・日比谷線中目黒発東武動物公園行 死者1名 ・丸の内線荻窪発池袋行 死者0名 ・丸の内線池袋発荻窪行 死者1名 ・千代田線我孫子発代々木上原行 死者2名 |
◆4 日比谷線北千住発中目黒行について
日比谷線北千住発中目黒行はとくに特記すべき事項が多い。この路線については、詳しく問題点を明らかにしたい。 北千住駅を出て、停車駅は南千住、三ノ輪、入谷、上野、仲御徒町、秋葉原、小伝馬町、人形町、茅場町、八丁堀、築地などで、中目黒まで行く予定だった。午前8時前、秋葉原を通過したころから被害が出始めた。 |
◆4-1 消えた築地駅の不審物-「ビン」報道と一致
日比谷線北千住発は特に悲惨な被害がもたらされた。その原因として裁判上ではサリンの袋がこの路線だけ3袋だったからだといわれている(その他の路線は2袋)。もう少し細かくいえば、袋からのサリン溶液の抜け具合、その後のサリン溶液の電車内でのたまり具合等により被害が大きくなった、と考えられているようだ。 しかし、袋の問題以外に、うやむやになっている疑惑が、実は存在する。 日比谷線築地駅では、不審物が消えてしまっている。この不審物は、領置された時の状態が「ガラス片」であったとの報道記録が残っている。また、被害者の視覚での目撃証言、被害者の聞いた音も「ビン」が存在したことを示している。 犯人とされる林泰男がもちいたナイロン・ポリエチレン袋とは別である。 まずは、不審物が消えていくプロセスを追ってみよう。 |
◆4-2 捜査本部最初の発表は不審物「6個」?
現在、サリンをつめたナイロン・ポリエチレン袋は5個だった、として裁判がおこなわれている。しかし、事件直後の捜査本部の調べでは、毒ガス容器と思われる不審物は6個である。
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◆4-3 その後、不審物「5個」に変更
事件から2日たつと数が6個から5個へ変わってくる。
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◆4-4 裁判では不審物「5個」、ビニール袋11袋
そのあと、 不審物5個、ビニール袋11袋となり、現在裁判中の内容と一致するようになる。 なお、裁判で検察側が主張している内訳は、ナイロン・ポリエチレン袋2袋でひとつにまとめているのが4セット、ナイロン・ポリエチレン袋3袋でひとつにまとめているのが1セット、計5セット、すなわち不審物5個である。
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◆4-5 不審物が「5個」になったのは築地駅の「『ビンの破片』不審物」が消えたから
21日朝刊までは不審物は計6個だった。 霞ヶ関(日比谷線、千代田線で2個)、築地、本郷三丁目、中野坂上、小伝馬町と具体的な駅名まであがっている。その6個が5個になってしまうのは、のちに築地駅の不審物が取り沙汰されなくなるからである。 築地駅でも不審物が押収されたのは確かなようなのだが、その後は築地駅の不審物のことは消えてしまう。 ちなみに、築地駅で領置された不審物は、「ビンの破片」だと伝えられている。
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◆4-6 その他の「ガラス片」報道
日比谷線北千住発に限った話ではないが、「割れたガラス片」や「ガラス瓶」を領置したとの報道は他にもある。
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◆4-7 多くの「ビン」報道 ― 見ただけではなく「ビンの割れるような音」を聞いた人も複数いた
ビンについては見るだけではなく、ガラスの割れたような音を、足立区に住む人、春日部市の田中孝典さん、越谷市の安蒜志栄さん、と少なくとも三人が聞いている。場所については、秋葉原駅、人形町駅、八丁堀駅である。字面でみるとなんとなく見過ごしてしまいがちだが、現場にいた人間にとっては『音』はかなりインパクトがあるはずだ。 割れる音を聞いた人も複数いただけでなく、築地駅では「透明の瓶の破片」(産経1995年3月21日朝刊1面)を押収しているわけだから、このビンの問題は明らかに軽視できない。 なお、他の路線では「『ビンの割れるような音』を聞いたという証言」はない。
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◆4-8 不自然な刑事の態度 ― 「ガラスビン」の表現をさける
不審物目撃者の吉秋満さんは、不審物について刑事とやりとりをしたことがある。 吉秋さんは 「ペットボトルの頭のようなもの」 「ガラス瓶が割れたのかな」 と思ったと話している。 しかし、刑事の方は 「そんなものはなかったはず」 と言う。 確かに、見まちがいということはありうるのだが、この場合はもう少し慎重に、どうして見まちがえたのか、という理由ぐらい説明してもよさそうに思う。 「ペットボトルの頭」や「ガラス瓶」というような表現を、警察が無理やりに忌避しようとしている、と思われても仕方がないようなエピソードである。
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◆4-9 白煙発生―被害の第一報は「爆発火災」?
被害の第一報については、 「私どもの病院へは8時16分に消防署から第1報が入っております。…『地下鉄小伝馬町駅と築地駅で爆発火災が発生した』」(聖路加国際病院副看護部長吉井良子の講演/日本病院会雑誌1996年7月号) と報告している。 他の路線では若干白煙の存在が伝えられるか、もしくは、ほとんどないか、である。日比谷線北千住発の場合はかなり多量な白煙がたちこめたようで、他の路線とはまったく違う。 また、事件第一報は「爆発火災」だったわけだが、これは白煙のせいだけではなく「割れる音→白煙」というプロセスのせいだったのかもしれない。
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◆4-10 白煙が発生する原因
白煙が上がる原因としていくつか考えられるが、有力なものとしては、2液を混合した際の化学反応から生じる副生成物「メチルホスホン酸ジイソプロピル(diisopropyl methylphosphonate)」が考えられる。 ちなみに、使用する直前に2液を混合する方法は、バイナリー方式と呼ばれる。
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◆4-11 バイナリー方式はプロの発想
バイナリー方式は、合成する前の物質を持ち運ぶわけだから、犯人にとっては完成品を持ち運ぶよりも取り扱いが安全であるといえよう。2液のうちのどちらかが何らかのトラブルで仮に漏れたとしても、それはまだサリンではない。それに対し完成品を持ち運ぶ場合、予定外のタイミングでサリンが漏れるようなことがあれば、犯人自身の命が危ない。
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◆4-12 白煙の理由は「メチルホスホン酸ジイソプロピル」、散布方法は「バイナリー方式」と警察発表
サリンをどういうふうに撒いたのかについては、警察は当初、バイナリー方式ではないか、と発表してきた。たしかに、バイナリー方式であると考えた方が、白煙発生の話ともつじつまがあう。白煙として考えられているサリン合成時の副生成物「メチルホスホン酸ジイソプロピル」も、現場から検出されているのだ。
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◆4-13 その後、「メチルホスホン酸ジイソプロピル」は消える―白煙発生はどう説明するのか?
ところが、地下鉄サリン事件の冒頭陳述では、「メチルホスホン酸ジイソプロピル」については、存在したとは書かれていない。へキサン、ジエチルアニリンがサリン溶液にあらかじめ混じっていた、とされている。警察発表では「ある」とされていたのに、どうなったのだろうか。それに、「メチルホスホン酸ジイソプロピル」はなかった、となると、白煙の存在がしたことについては、どう解釈すればいいのか? ちなみに、松本サリン事件では、白煙の発生があまりにも明らかである。そのためだろうか、メチルホスホン酸ジイソプロピルが存在したことについて、松本サリン事件では、検察は認めている。サリン溶液の中に不純物としてあらかじめ混じっていた、との理屈で検察は主張している。
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◆4-14 「バイナリー方式」も消える―白煙発生はますます説明がつかない
バイナリー方式についても、そうではなかった、との話になる。31日には、完成品を持ち込んだ、ということになった。 しかし、完成品だったとなると白煙が日比谷線で多量に生じたことはどう説明するのか? 念のため、「メチルホスホン酸ジイソプロピル」もしくは「気化した場合、白煙として見える物質」が完成品のサリン溶液に混じっていたのだ、と検察側が主張しそうな理屈を想定してみよう。 しかし、そうであっても、疑問はのこる。完成品であった場合、化学反応特有の物理的な変化(発熱等)は、現場では生じないわけだから、「メチルホスホン酸ジイソプロピル」もしくは「気化した場合、白煙として見える物質」も単に漏れるだけである。これでは、白煙として車内にたちこめるとは考えづらい。結局、白煙についてはうやむやになっているだけで何の説明もなされていないのが現状である。その後、警察・検察の発表ではバイナリー方式には一切触れられていない。
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◆4-15 何者か?―「小伝馬町の男」
犯人の目撃証言について。まず、いわゆる「小伝馬町の男」について考察してみる。 「小伝馬町の男」は、まず東京1995年3月21日の記事に登場した。 目立ったのが、読売新聞3月28日朝刊1面トップの大見出しで、 「入院の男 容疑者と断定」 とまで報道されてたことだ。 しかし、1面トップで掲載した当日の夕刊では 「都内の病院に入院中の男性は、二十八日までの調べで身元が判明し、犯行との関連はないことがわかった」(読売28日夕) と、ずいぶん安直に小伝馬町の男のことを否定してしまった。 しかし、この男が犯行と関係がない、となぜ言い切れるのか、疑問視せざるを得ない。 まず、不審物があった。それをホームにけり出した人がいる。「小伝馬町の男」がいる。「小伝馬町の男」と口論した人がいる。次に、「小伝馬町の男」が走って逃げだしたので、「あいつが犯人だ」と叫びながら追いかけた人もいる。現場での「小伝馬町の男」に向けられた疑惑の目は、なみなみならぬものがあった。 ちなみに、この「小伝馬町の男」は小伝馬町駅で下車しており、小伝馬町駅のひとつ手前の駅・秋葉原駅で下車した林泰男被告人でないことは、はっきりしている。 念のため服装面を比較しても違う。林泰男は 「ハーフコート(腰までのコート)」 を着ていたと証言(林泰男証言/麻原66回公判1998年2月13日)している。 「小伝馬町の男」の服装として伝えられている 「ひざまである黒っぽいコート」 とは異なっている。
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◆4-16 「小伝馬町の男」に間違えられた、と憤慨している男
「小伝馬町の男」、すなわち犯人として疑われたと憤慨している金子晃久さんという人がいる。しかし、金子さんは、事件発生電車の後発の電車に乗車しており、事件と無関係なのは、はっきりしている。具体的にいえば、ほんとうの「小伝馬町の男」が乗っていた電車より四本か五本後発の電車である。また、ほんとうの「小伝馬町の男」が乗っていた電車は、A720Sというダイヤ番号の電車であることが、多くの目撃証言からわかっている。 つまり、金子さんは「小伝馬町の男」ではない。 次に、金子さんが犯人でもない。 それだけのことなのだが、なぜこんな話を書いたかというと、この人にまつわる話が、「小伝馬町の男」の話をややこしくしているからだ。一部マスコミは、金子さんと「小伝馬町の男」を同一人物視し(金子さんが自分でそう言うせいもあるが)、「小伝馬町の男」のことが解決したような報道になってしまっているところもある。実際は、「小伝馬町の男」の件は闇に葬り去られたままで、なにも解決していない。念のため事実関係を書いた次第だ。
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◆4-17 何者か?―事件直後に「サリンだ、サリンだ」という中年の男
現場にいた人にとって、事件の原因はなにがなんだかわからるものではない。しかし、築地駅で電車が停止したとき、一人の中年の男性が「サリンだ、サリンだ」と言いながら歩いていったという。他の路線では、こんな話は聞かない。地下鉄サリン事件の前年には松本サリン事件があったので、たまたま連想したとも考えられなくもないが、気になる話ではある。
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◆4-18 何者か?―ほかの目撃証言
そのほかに、仲御徒町駅から乗車した林泰男ではないし、秋葉原駅から乗車した小伝馬町の男とも違う犯人像も伝えられている。 これらが犯人かどうかはわからないが、念のため触れておく。
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◆4-19 他の路線とは異質な日比谷線北千住発の被害
他の路線とくらべて、日比谷線北千住発での事故描写は悲惨である。乗り合わせた乗客のなかには、電車にまだ乗車しているうちから、叫んだり、興奮状態で口論をしたり、まさにパニックというべき状態になっている人が数人はいる。 それと比べ、他の路線の被害者は、最初は「咳き込む」とか、「臭い」という反応だ。その後、電車から離れてからも、じわじわと体調が悪化していっていって、ひどい場合は死亡、という感じである。たとえば、不審物を手に持って、5分ほどかけてサリン溶液を拭き掃除し、その時はさほどの事もなく電車を出ていっているし、乗客もその様子を目の前で落ち着いてみている。 単なる描写だけではなく、日比谷線北千住発は数字で死亡者数をみても他の路線より断然ひどい。さきほどの各線の死亡状況に見るとおり、日比谷線北千住発は8人で、次に被害が多い千代田線の2人と比べても死亡者数が4倍である。他の4路線の平均死亡者数は一路線につき1人だから、これと比べると日比谷線北千住発の死亡率は8倍となる。このことからも、他の路線との大幅な差異は間違いなく存在すると言えよう。
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◆4-20 まとめ
今までのことを、まとめてみよう。 日比谷線中目黒行き列車の停車駅の順序、および被害の状況を流れ図で示す。これを見ると、ひとつのおかしな点に気付く。 秋葉原駅(サリン入りのナイロン・ポリエチレン袋に穴があけられる/林泰男被告人下車) ↓ 小伝馬町駅(4人死亡/ナイロン・ポリエチレン袋は列車から除去され小伝馬町駅のホームへ放置される) ↓ 人形町駅(死亡者なし) ↓ 茅場町駅(死亡者なし) ↓ 八丁堀駅(1人死亡) ↓ 築地駅(3人死亡/重篤者2名) 小伝馬町駅でサリン入りのナイロン・ポリエチレン袋は列車から蹴り出され、ホームに放置された。したがってこの場所ではサリンが多く存在する形になる。また、秋葉原駅から小伝馬町駅の間でサリンを吸引した人もいるだろう。だから、小伝馬町駅での死亡者が多いことは、それほどおかしくはない。その後、人形町駅、茅場町駅では死亡者は出ていない。いったん、被害は沈静化に向かったかのごとくであり、これも当然といえば当然である。 しかし、問題はここからである。茅場町駅の次、八丁堀駅では1人死亡、その次の築地駅では3人死亡(重篤者2名/重篤者は築地駅だけ=検察主張による)、と逆に増えてしまった。乗車していた人の証言でも、八丁堀あたりで急激な異変を感じだした人が多いようだ。だいたい、八丁堀駅以降の死者のうち、2人は茅場町駅からはじめて乗車した人なのである。
なぜこのようなことがおきるのか?
ナイロン・ポリエチレン袋だけで説明しようとするならば、電車の中に残留したサリン溶液が原因だ、との説明しかありえないだろう。そこで、渡辺弁護団長は「電車内に濃厚な毒ガスが残っていた」と解釈した。しかしこの解釈も、人形町駅・茅場町駅で一人の死者も出ていないという事実により、少々妙に感じるのである。 だいたい、日比谷線北千住発では、乗客のパニックのピークが明白に2回ある。小伝馬町駅で第1回目のパニックのピークがある。ここでは、8時5分の段階でもう死者が出ている。サリン散布が8時ごろとされているから、ほぼ即死というべきだ。即死の被害者が出たのは、全ての路線の中で小伝馬町駅だけである(日比谷線中目黒発神谷町駅でも8時10分死亡の被害者がいるが、当時92歳の高齢者であり、後日にはサリンと別の死因と判明している)。第2回目のパニックのピークは八丁堀駅から築地駅にかけてである。このパニックの発生は爆発的であり、築地駅の事件第一報が現に「爆発火災」である。これが全線、各駅に伝えられたほどだ。 このように、パニック(もしくはトラブル)のピークが明白に複数あるのは、5路線のうち日比谷線北千住発だけだ。 このようなことから、次のように考えれば、全ての話に整合性が出てくるのではないかと考える。 すなわち、すくなくとも八丁堀駅付近で、林泰男被告人の犯行とはまた別の形でサリンが散布された、という仮定である。つまり、毒ガス発生は2回、もしくは2回以上あったのではないか、ということである。こう考えれば、消えた不審物、「ビン」の存在とも符号する。また、「ビン」の件とは別に、「小伝馬町の男」の件もまだまだ未解明な点がある。 予断と偏見をもたずに事態を鑑みるならば、このような解釈がむしろ「すなお」な解釈だと思う。
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◆5 日比谷線中目黒発東武動物園行について ― 詳細な「謎の不審物」の記録
日比谷線霞ヶ関駅では、不審物が目撃されている。 東京新聞では、この不審物を図入りで詳細に描写している。 一番外側が透明ビニール袋、その内側に茶色の紙袋状のもの(30cm×40cm×10cm/液体が染みて黒くなっている)が入っている。さらにそのまた中に、ガラスかプラスチック製の瓶の口のようなもの(白色か透明)が二つ並んでいて、この口から透明な液体が流れ出していたという。 口が二つあった、という点が、バイナリー方式を想起させる。また、検察側主張では、このような不審物の存在は一切出てこない。 この不審物は「包みの中には二つの密閉された容器が入っており、容器を踏むなど衝撃を与えるとそれぞれの密閉パックに入ったサリンが発生する」(読売1995年3月24日夕刊19面)とした記事内容と符号している。 この不審物が伝えられたのは21日朝刊で、まだ記憶が鮮明な時期にあたり、図が書けるほどの、かなり観察力のある目撃者で、信用性は高い。
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◆6 千代田線我孫子発代々木上原行について ― 亡くなった高橋助役が運んだのは「箱」?
林郁夫を含むオウム実行犯はすべてナイロン・ポリエチレン袋を使って犯行をおこなった、として証言している。検察側の公訴提起内容も、犯行に使われたサリン容器はすべてナイロン・ポリエチレン袋としている。 しかし、高橋助役は、ナイロン・ポリエチレン袋ではなく、「箱」を処理した、との証言がある。 目撃者は、事故処理にあたっていたと思われる消防署員であり、信憑性が高い。 目撃された箱寸法は約十センチ×三十センチ×五センチである。この箱の寸法は、路線の異なる日比谷線中目黒発東武動物公園行での 「カステラの箱状のもの」(東京1995年3月20日夕刊9面) と表現された箱寸法とぴったり一致する。ここは気になるところだ。 もうひとりの目撃者である井筒光輝さんもかなり落ち着いて長時間観察しており、その上で「箱」と表現している。 これらを総合すると、不審物として「箱」が存在した可能性はかなり高いと言えるだろう。
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◆7 複数路線・複数車両にかかわる検証
複数路線に絡んでくる問題について明らかにしたい。 ◆7-1 消防庁は「ある」といい、警視庁は「ある」から「ない」に変えた「アセトニトリル」 事件直後、東京消防庁、警視庁科学捜査研究所がそれぞれ独自にアセトニトリル(Acetonitrile)を検出したといわれている。 東京消防庁は本郷三丁目、中野坂上駅の二駅で検出、警視庁科学捜査研究所は築地、本郷三丁目、中野坂上駅の三駅で検出、という内訳である。 だが、27日になると、「警視庁は『検査では発見されなかった』」(日経1995年3月27日夕刊15面)と変化してしまう。裁判での尋問においても、警視庁の職員は「なかった」との姿勢を打ち出している。しかし、公判での警視庁職員の証言は、どうも歯切れが悪く感じる。 諸々の資料を総合すれば、「アセトニトリル」は検出されていた、と判断するのが妥当かと思われる。 ところで、アセトニトリルが現場にあった意味について、「この状態の方が揮発しやすく、広がりやすい」とか、「犯人が逃げる時間を稼ぐためサリンを薄めた」などと専門家は推測している。つまりは、アセトニトリルはサリンを溶かす溶剤の役割、という見解だ。
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◆7-2 神経ガス「タブン」があった可能性も?
タブン(Tabun)の可能性を早くから指摘してきたのは英字週刊新聞「ジャパンタイムズ・ウィークリー(The Japan Times Weekly)」だ。4月1日号に「Tabun,it's Tabun」のタイトルで掲載されている。ただなぜタブンと判断したか、もう一つはっきりしない。 被害者には尿検査が行われた。「イソプロピルアルコール(isopropyl alcohol)」「エタノール(ethanol)」「アセトン(acetone)」など6項目が検査されたという。その中で問題となったのは、エタノールの数値が異常に高かったことである。サリンが体内で分解されてもエタノールが検出されることはない。エタノールはサリンに反応するので溶剤としても使えない。 体内に入った神経ガスが分解しエタノールが出てくる物質としてタブンがあげられる。ここでタブンが出てくるわけである。あるいは毒ガス生成段階で、「サリン生成の際使用されるイソプロピルアルコール」の代わりにエタノールを使った可能性もある。この場合もサリンと似た毒ガスが発生するという。 もっとも「致死量が1mg以下とされるタブンが加水分解したとすれば、検査結果に表れたエタノール量が多すぎる」という指摘もあり、タブンの可能性に疑問を投げかける人もいることは押さえておいてもよいだろう。
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◆7-3 「びらん性ガス」を検出?
日比谷線小伝馬町駅構内では、自衛隊の化学部隊はびらん性ガスを検出している。そして、病院に運ばれた三人の患者は、びらん性ガスの症状を呈していたという。三人が運ばれた病院名は不明なのだが、「3月20日午後診察中、中毒疹様の発疹が数人に観察された」との報告をなした、聖路加国際病院の可能性が高い。 多くの被害者の治療にあたった聖路加国際病院では、数人の皮膚に中毒の影響でできたような発疹がみられたという。サリンによる症状か、治療薬の影響によるものか、と判断に苦慮したようだ。ただ、サリンは皮膚に付着しても直接皮膚に症状は出ないとされている。松本サリン事件でも皮膚に関する傷害は報告されていない。そうすると、治療薬によるものか、もしくは、びらん性ガスの可能性も考えられることになる。 サリンは「神経ガス」の一種である。 「びらん性ガス」というカテゴリーと「神経ガス」というカテゴリーは全く違うものだ。分子構造も違えば、人体に対する毒の作用のしかたも違うし、解毒のしかたも違う。 このびらん性ガスについて、警察・検察からは、やはり何の話もない。
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◆7-4 松本サリン事件での教訓に関わらず、なぜ警察は地下鉄サリン事件現場の空気を採取しなかったか?
長野県衛生公害研究所の人たちは、松本サリン事件において原因究明活動の一環として、現場で空気を採取している。 ところが地下鉄サリン事件では、現場の空気採取について、 「警視庁のほうはそんなものを聞いてもいない」 と、現場証拠収集をやっていないことを、当然のように言い、居直ったまま、まるっきり逃げている。 |
◆7-5 不審物の中身―サリンについて
検察側冒頭陳述によると、 サリンの入ったナイロン・ポリエチレン袋を遺留品として押収している。 ところで残留サリンの純度とかのデータについて、鑑定書の記載はどうなっているのだろうか。地下鉄サリン事件では、どのようにサリンと特定したか、具体的なことは一切不明のままである。よく考えてみると、「地下鉄『サリン』事件」と一応は呼ばれているが、そう呼ぶ科学的根拠はいまだ明らかではない。松本サリン事件では、長野県衛生公害研究所が、どのようにサリンと特定したか、科学的データを公開している。 |
◆7-6 ナイロン・ポリエチレン袋について
ナイロン・ポリエチレン袋の詳細については、 新聞記事、および検察冒頭陳述に情報が出ている。 この袋については、いまだ現物が法廷へ提出されていない。また、検察は出すつもりがそもそもないようだ。
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◆7-7 傘について
検察側冒頭陳述では、ナイロン・ポリエチレン袋には、傘の先端を突き刺して穴をあけたとなっている。 林郁夫、林泰男の証言では、傘を捨てたことになっているが、この傘は発見されたのだろうか。各被告人の公判では、傘などの物証が法廷へ出されたとの話はない。もし物証が発見されていないとすると、自白のみの事件となってしまう。証言にはそれなりに信憑性があると、わたしも考えてはいるものの、できれば提出されるべきだろう。 |
◆7-8 京王井の頭線でも不審物が発見?
地下鉄サリン事件が発生したとき、不審物が発見されたのは合わせて十数カ所、との報道もある。その中でも比較的はっきりしているのは京王井の頭線駒場東大前駅である。
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◆7-9 領置調書について ― 警察はナイロン・ポリエチレン袋以外の不審物の件すべて無視
警察の発表では、ナイロン・ポリエチレン袋以外の不審物については一言も言及していない。 裁判においては、検察側は当初、領置調書を証拠請求をしていた。 しかし弁護側は、「濡れた新聞紙様のもの」としか書いてないので、不同意とした。警察官に領置したときの状況を尋問した結果、「袋はあった」との証言を得た。 そこで、弁護団は領置調書に対する不同意を撤回して、証拠として法廷に出すことを要求した。弁護団はデュープロセスを問題としており、その点を追及したわけである。 ところが、こんどは 「領置調書を法廷に出さないことにした」 と、検察側は予定を変更してしまう。 このように、検察は不審物とみられる不審物の領置調書を提出していない。 証拠物がどこにあって、どのように警察がそれを受け取った(領置した)かの書類を、本来検察は証拠として提出する義務がある。提出しない場合は、本来、証拠価値はないのである。いきなり物を出すだけでいいのであれば、でっち上げでも何でもできてしまう。裁判所はそれでよしとするのであろうか。 |
◆7-10 不自然な鑑定時期―事件二カ月後
気になるのは、不審物は20日朝領置したのに、鑑定嘱託と仕分け作業は3月25日と遅かったこと、鑑定書作成は一つは3月26日だったが、あとは5月24日になり大幅に時間がかかっていることである。 科捜研の安藤氏は、これについて、答えにならないようなことを言っている。 「袋が破れて中の液体が出た資料と同じということを当初考えておりまして、まるまる残った二つの大袋については、事後の証拠品ということで、そのまま保管しようということでおりました。もし中身が違ったら問題だということで、四月の末と五月にそれぞれその袋を開けました。したがって、鑑定資料を測定したのが遅くなったというのはそういうことです」 これでは、行き当たりばったり、その時の気分で鑑定をしていることとなり、これが事実ならこれはこれで疑問だ。 しかし、1995年3月から4月当時、ありとあらゆる手段を使って大捜査を繰り広げ徹底的な情報収集に励んでいた警察が「捜査の鍵」となるような証拠をほったらかしにしていたとはとても信じがたい。 情報収集のための捜査の徹底ぶりは「オウム裁判対策協議会」の「オウム関連/逮捕・起訴・接見に関する統計」や「オウム真理教信者・元信者に対する強制捜査のデータ」の数値で具体的に読みとれる。「蟻の這い出る隙もない」という表現がぴったりな捜査の徹底ぶりだ。 さらに渡辺弁護人は 「普通の鑑定のやり方とは思われないのでちょっと聞いてるんだけれども。もともとから言えば、一番重要な証拠なんだから、真っ先に仕分けして、真っ先に鑑定されるべきじゃないんですか、このG、H(筆者注:千代田線霞ヶ関駅で領置された不審物)とかJ、K(筆者注:丸ノ内線本郷三丁目駅で領置された不審物)の証拠物は」 「五月二四日というのは、五月一六日に被告人が逮捕された後ですよ。後になって、間違ったら困るからってまた鑑定するというのは、どういう考え方なのかな」 と畳みかけたが、安藤氏は 「私どもで物の保全ということを考えておりまして、そういうことになったわけです」 とかわしてしまった。それにしても、これでは答えになっていない。結局、考えが変わった理由については説明がなされていないのである。 さらにいえば、不審物について、誰が、どういうふうに運んで、自衛隊化学学校のどの部屋で、何時何分から、誰が、どのように仕分け作業をしたのか、まるっきりわからないのである。 弁護団は、警視庁の科学捜査研究所が自分で仕分け作業をしたのではないか、と疑問を出している。捜査機関ではない自衛隊に持ち込むのは、本来おかしい。仕分けの嘱託書などもあるのかどうか、さっぱり不明である。
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◆7-11 公判での証拠提出は異例のカラーコピーのみ?
検察側は、不審物の領置調書を法廷に提出せず、仕分け作業の記録を出していない。 渡辺脩弁護団長がよく「異例」にして「異常」というのは、検察が具体的に証拠物を法廷に提出していないことに最もよく現れている。 検察側は証拠物を写真撮影したものを「写真撮影報告書」として作成した。ところが写真撮影原本のまま提出することはなかった。それをさらにカラーコピーしたものを証拠として法廷に提出しているのである。 これらに対し、渡辺弁護団長は、 「幾多あるべきはずの証拠物が一切請求されていない」(麻原弁護団更新意見書1997年4月24日) と指摘している。 弁護団が指摘しているように、写真では証拠物の形状、材質、質感の把握が困難で、ましてカラーコピーでは写真に比べさらに色調、鮮明さで劣っている。 まず具体的な証拠物が裁判には必要だし、不可能な時のみ写真でも構わないとすべきである。何ゆえに、生の証拠物を提出しないのか、ましてやカラーコピーだけですまそうというのか。 この件についてはウィスコンシン大学のルイス教授は「very strange」と驚きの声をあげた。日本においては「異例」な話だが、アメリカの感覚でも「異例」のようだ。
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◆7-12 地下鉄サリン事件15日前に類似事件が発生している
地下鉄サリン事件が発生した半月前の1995年3月5日深夜、地下鉄サリン事件とそっくりな事件がおきている。地下鉄サリン事件の予行演習かと思ってしまうほどだ。なお、この事件について、オウム実行犯が関与したとの情報は、今のところ一切ないから、オウム実行犯は関係ないとみていいだろう。 事件の概要を説明しよう。 3月5日午後11時50分から6日午前0時10分にかけて、京浜急行品川発浦賀行き普通電車(4両編成)が横浜駅を出た直後、3両目の電車の中央付近で刺激臭が漂いはじめた。3両目には約80人が乗っていたが、乗客約19人が目がチカチカしたり、のどが痛かったり、せき込んだり、頭痛などの症状を訴えた。「酸っぱいにおいがした」「きな臭かった」「光化学スモッグのような感じだった」という。 11人の乗客が日ノ出町駅からの119番通報で横浜市内の病院に救急車で運ばれた。いずれも症状は軽く、診察の後帰宅した。 19人のうち8人はそのまま立ち去った。 車内からは痛みを訴える原因とみられるものはなにも見つからなかったという。
この、京浜急行刺激臭事件のことは、麻原裁判でも取り上げられた。京急刺激臭事件で鑑定を行った警察庁科学警察研究所の瀬戸康雄に対し尋問がおこなわれている。
瀬戸の証言たるや、どうも中身があまりはっきりしない。かろうじてわかるのは鑑定したことと、何も検出されなかったことだけである。 結局、目の痛み、頭痛、吐き気、せき込み、刺激臭の原因はなんだったのだろうか。 ただ、 「県警は、被害発生状況から何者かが化学物質を電車内に持ち込んだ疑いがあるとみている」(読売1995年3月6日夕刊19面) とあるように、化学物質が原因との見方があるのは注目されてよいだろう。 この京浜急行刺激臭事件が大きく注目されたのは、地下鉄サリン事件が発生してからだ。防衛庁の専門家や推理作家の小林久三は京急刺激臭事件は地下鉄サリン事件の予行演習だったのでは、と分析している。 確かに、ここまで地下鉄サリン事件と似た感じの事件(事故)は、自分の耳に入ってくる範囲では、普段はまったく聞かない。なぜか地下鉄サリン事件15日前におきていたことは、偶然にしてはできすぎの感がぬぐえない。
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◆7-13 麻原主任弁護人が逮捕される-多くの「不当逮捕」の声
麻原弁護団主任弁護人・安田好弘弁護士が、1998年12月6日、強制執行妨害容疑で逮捕された。そののち起訴され、現在(1999年9月)も裁判が続いている。4回もの保釈請求によりやっとの保釈(1999年9月27日)に至るまでの約10ヶ月間、安田弁護士は拘留され続けた。 しかし、本人は無罪であること、容疑をでっち上げて逮捕されたこと、を一貫して主張し続けている。本人のみならず、多くの学者・法曹関係者・人権運動家がやはり不当逮捕・不当勾留であることを指摘した。安田弁護士を助けるため弁護人となった弁護士は総人数1240名を超えるという、日本の刑事事件では前代未聞の弁護人数となっている。 この逮捕は、表向き、麻原裁判とはまったく関係がない。しかし、実際のところは麻原裁判において真相を厳しく追及する安田弁護士の存在を検察が邪魔に思い、別件ででっち上げ逮捕された、と見る関係者も少なくない。
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◆7-14 まとめ
地下鉄サリン事件では、あまりにも検察側冒頭陳述と違う話が多すぎる。麻原被告人と敵対する被害者からでさえ「きちんと真相を追及してくれる弁護士」として評価の高かった麻原主任弁護人・安田弁護士は、「『真相』を追及する」がゆえに逮捕されたのだろうか。不審物のあつかいをはじめ、検察側は何か隠している、といわざるを得ない。 わたしとしては、 「『多種類の不審物(あるいはガス)の存在があきらかになってしまう』ことを検察は恐れた」 と考える。 オウム実行犯の証言では、犯行に使われたのはナイロン・ポリエチレン袋だけである。事件を立件する立場から言えば、犯行に使用された疑いのある容器としてはナイロン・ポリエチレン袋一種類に絞り込み、すべてをオウム実行犯の責任とした方が話が早い。 |
●第2章 松本サリン事件について
1994年6月27日深夜、長野県松本市で有毒ガスによる死亡事故が発生した。事件を新聞で知ったのは翌日の夕刊だった。 ◆1 松本サリン事件における、「サリン」特定のプロセス 事件後、長野県衛生公害研究所と警察庁科学警察研究所が現場付近の池の水などを採取し、原因究明にあたった。7月3日警察は「サリン」を検出したと発表し、4日朝刊各紙で報じられた。 事件当初、被害者のコリンエステラーゼ値が低下したこと、縮瞳が生じていたことなどから有機リン系化合物がもっとも疑われた。 長野県衛生公害研究所は、原因物質究明のためにガスクロマトグラフ(gas chromatograph/GC)とマス・スペクトロメーター(質量分析計)(mass spectrometer/MS)を組み合わせた日本電子製のガスクロマトグラフ質量分析計(gas chromatograph mass spectrometer/GC-MS)を使用した。 そして、下記四点から、原因物質をサリンと特定したわけである。 ①池の水から得たマススペクトルmass spectrum(波形データ)の一つ(ピーク1)が、ライブラリーの「サリン」と一致した。 ②リテンションインデックスretention indexとよばれる方法をとった。リテンションインデックスは、GCのリテンションタイムretntion time(試料を入れてからピークの頂点が現れるまでの時間)を、標準となる物質である直鎖のメタン列炭化水素hydrocarbon of methane series(メタンmethane、ノナンnonane、デカンdecaneなど)によって指標化したもので、この数値の比較によって同一物質かどうかを判定する方法である。 国立衛生試験所の協力を得て、サリンのリテンションインデックスを入手し、ピーク1の物質のリテンションインデックスを測定したところ、よく一致した。 ③別のマススペクトルmass spectrumによって分子量を測定すると、サリンの擬分子イオン(MH+)と考えられる141のピークが見られた。なお、サリンの分子量は140.09である。 ④池の水に入れたメダカが1時間で、アカヒレが2時間で全部死んだ。 もっとも、サリンと特定した見解にたいして、当時は他の専門家筋から疑問がでたのも事実である。 サリンなら無いはずの刺激臭があったり、白い煙が出たり、植物が枯れたりしたからである。純粋のサリンが植物を枯らすことはなく、白い煙も出ない。さらに最初は長野県衛生公害研究所がマススペクトル(波形データ)を公開していなかったこともある。 刺激臭、白い煙、植物の枯死についての疑問は、サリン合成の際に出る副生成物の発生によるものだ、と結局了解されることになった。主にフッ化水素(hydrogen fluoride)(HF)などが原因といわれている。 マススペクトル(波形データ)については、1995年3月20日の地下鉄サリン事件をきっかけに、長野県衛生公害研究所はデータを公開し、一般の人も見ることができるようになった。 こうした長野県衛生公害研究所の態度に比較して警察庁科学警察研究所は一切データを出してこない。 裁判では一部データが出ているのかもしれないが、オウム真理教に関する事件の検察側資料の大部分は弁護人ですらコピー禁止になっており、一般には公開されていない。
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◆2 サリン撒布 ― 犯行時間について
松本サリン事件の主な原因物質はサリンと判明した。次の疑問はサリンがいつ撒かれたかである。 検察側冒頭陳述では、サリンが撒かれたのは1994年6月27日午後10時40分ころから約10分間とされている。 |
◆3 犯行時間よりなぜか早く生じている多数の自覚症状
裁判ではサリンが撒かれたのは1994年6月27日午後10時40分ころからとされている。 ところが現場周辺の住民2052人に対して,信州大医学部が行ったアンケート調査によると、被害の自覚症状を感じた人は、午後8時から9時までに5人、午後9時から10時まででは8人いた。つまり、サリンが撒かれたとされる午後10時40分の2~3時間前から被害が出ていたことになる。これは午後8時台にはサリンがすでに撒かれ始めたのではないかとの疑問が生じてくる
調査にあたった那須民江・信州大医学部講師は次のように評価している。 「八時台の五人は散在しており、記憶違いの可能性があるが、九時台は、発生現場と同じ番地に四人がまとまっている。症状も共通しており、九時台にサリンが発生したのではないか」(読売新聞1995年6月25日朝刊31面)。 ここにあげた松本市地域包括医療協議会は松本市医師会、松本市、松本保健所、信州大学医学部から構成され、一定の権威をもっている団体である。成果をまとめて『松本市有毒ガス中毒調査報告書』を出版した。 午後10時半以前に被害が出ていた、ないし異臭を感じたと記載した新聞記事や単行本はいくつかある。 最もはやい証言は、午後6時ころ、毛虫が落ちているのが目撃され、刺激臭がした、というものである(毎日新聞1994年7月1日夕刊19面)。
その次は、午後7時ころ、白い霧を目撃した。その後目が痛くなり具合が悪くなった、という(信濃毎日新聞1994年7月1日朝刊39面、読売新聞1994年7月1日朝刊35面)。
午後九時台についてもう少しみてみよう。 八歳の男の子は「午後9時25分に」身体の異常を訴えた(下里正樹『オウムの黒い霧』双葉社212頁。さきほどの『松本市有毒ガス中毒調査報告書』の事例の人)。 大学生の一人は友人と「9時30分頃帰宅し」変な臭いをかいだ(下里正樹『オウムの黒い霧』双葉社212頁。『松本市有毒ガス中毒調査報告書』の事例の人)。 Hは事件当夜、松本レックスハイツの真向かいにあるコーポ小林に住む友達のところに遊びに来ていた。コーポ小林を「9時か遅くとも9時半に出た」途端、目がチカチカし、鼻水が出てきた。帰宅後、視野狭窄、頭痛、激しい嘔吐、下痢のため緊急入院した(テレビ朝日の取材班がまとめた磯貝陽悟『サリンが来た街 松本サリン事件の真相』データハウス120頁)。 Hが被害にあった路から北東約70m先の民家Tは、「9時過ぎに」、突然鼻水が出、胸が苦しくなった(磯貝陽悟『サリンが来た街 松本サリン事件の真相』データハウス124頁)。 20歳代女性が窓を開けたまま勉強していた。「9時半ころ」友人と電話していると、声が震えているといわれた。10時半ころ呼吸困難に陥り、その後入院した(『松本市有毒ガス中毒調査報告書』73頁)。 時間の記憶については通常あいまいである。だが、これだけの人数の人が具体的に覚えていることは無視しえないことだろう。夕食後はテレビ観覧をする人も多い。その時間とも重なるため、比較的時間の特定も容易な時間帯と言えるだろう。 |
◆4 宇宙服のようなものを着た二人が、犯人現場到着前に目撃されている
もう一つ興味深い目撃証言をあげてみよう。 内容は、午後9時ころ、事件現場とされる池から南西250m離れた路上に大型乗用車が止まっており、車の中に二人がいた。外にいた二人は銀色っぽい宇宙服のようなものを着ていた、というものである(朝日新聞1995年3月24日朝刊39面)。 午後9時ころという時間と、宇宙服のようなものを着ていたというのが気になる。宇宙服のようなものがサリンの防護服ではないかという疑問である。 |
◆5 事件現場から検出された化学物質
長野県衛生公害研究所が現場で検出したのはサリン(Sarin)、サリン生成時の副生成物(製法によっては中間物質)であるメチルホスホン酸ジイソプロピル(Diisopropyl methylphosphonate),サリンが加水分解したさいにできるメチルホスホン酸イソプロピル(Isopropyl methylphosphonate)、メチルホスホン酸(Methylphosphonic acid)で、公式に論文で認めている物質である
サリンが加水分解したさいにできるメチルホスホン酸イソプロピル、メチルホスホン酸の検出は、サリンがあったことの間接的な証明となっている。 1988年イラク政府はクルド人に対して毒ガスを使用したといわれた。これを証明するため、1992年イギリス・ポートンダウン化学戦防衛研究所は、毒ガスが使用されたというイラクのバージニというところの土を採取した。質量分析計によって調べた結果、サリンが加水分解したさいにできるメチルホスホン酸イソプロピル、メチルホスホン酸を検出したのである。同時にマスタードガスの分解物も検出した。
長野県衛生公害研究所の調査は、このイギリス・ポートンダウン化学戦防衛研究所の研究成果を受けたものであろう。 現場からは、ほかにも化学物質が検出されたという非公式な報告があるが、このことについては別の機会に述べることにしたい。 このほか、現場近くの裁判所官舎の塀の内側にある松の枝が枯れており、サリンが複数の場所で撒かれたのではないかと指摘されている。 『松本市有毒ガス中毒調査報告書』によれば、自覚症状を感じた時間は午後11時台から翌28日午前0時台が一番多かったが、28日午前6時から8時にかけても小さなピークがみられたことから、サリンを何回かに分けて撒布したのではないかとの疑惑も生じている。『松本市有毒ガス中毒調査報告書』でも不思議がっている。これらの問題も課題として、あとで検討したいと思っている。 |
◆5-1 アルミニウムが検出された ― 別犯行の傍証か?
長野県衛生公害研究所は水質検査を主な業務としている関係から、水質検査を松本保健所と協力して行っている。 松本サリン事件の現場からアルミニウム(Aluminium)が検出された件は重要なので、詳しく触れてみよう。 |
◆5-2 アルミニウムが検出された、場所、および量
検出されたのは現場の二つの池からで、 北側の池から0.020mg/l、 南側の池からは0.057mg/lが検出された。
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◆5-3 北側の池より南側の池の方がサリン濃度もアルミニウム量も濃い
アルミウム検出の件は新聞にも載っている。そこでは、サリン濃度・アルミニウム量ともに、北側の池より南側の池の方が多い、となっていた。 このことは、サリンが南側の池で多く発生したことを示している。
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◆5-4 サリン合成とアルミニウムの関係
ここでなぜアルミニウムが問題になるのか説明しよう。サリンの合成方法はおおよそ100通りある。そのなかには、「アルミニウム」および「アルミニウム元素を包含する化学物質」を使用する方法があるからにほかならない。 サリン合成の最終段階で、 メチルホスホン酸ジフルオリド(Methylphosphonic difluoride) O ∥ CH3-P-F | F と、アルミニウムイソプロポキシド(Aluminium isopropoxide) Al[OCH(CH3)2]3 を反応させると、サリンが合成される。 アルミニウムイソプロポキシド(Aluminium isopropoxide) の合成方法は、 イソプロピルアルコール(isopropyl alcohol) (CH3)2CHOH にアルミニウムAlを入れるだけでよい。 ここにアルミニウムが出てくる。 アルミニウムが検出された理由として、この段階でのアルミニウムが残ったのではないか、という考え方が可能なのである。 メチルホスホン酸ジフルオリド(Methylphosphonic difluoride) とイソプロピルアルコール(isopropyl alcohol) を反応させても、サリンは合成されるが、 アルミニウムイソプロポキシド(Aluminium isopropoxide) の方が反応しやすいという特徴をもっている。 つまりアルミニウムが検出されたということは、サリン合成にアルミニウムやアルミニウムイソプロポキシド(Aluminium isopropoxide)が使用された可能性が高いことを示唆している。 ひるがえって、検察側冒頭陳述を見てみると、オウム真理教信者・土谷被告、中川被告のサリン合成方法は、合成過程でアルミニウムは使用していない。 被害時間の疑問とあわせ、もしアルミニウムがサリン合成に使用されたとするならば、現在起訴されている人たちの犯行、とは別の犯人がいたのではないかとの想定が当然出てくることになる。
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◆5-5 「アルミニウムはアルミ弁当箱が原因との見解」に対して
アルミニウムの件については別の見解もある。 アルミニウム製の古い弁当箱からアルミニウムが溶け出して、それが検出されたのだ、というのだ。はたしてアルミ弁当箱から、長野県衛生公害研究所が多いと評価するほど、アルミニウムは溶け出すものなのかどうか。首をひねってしまう。下里の書き方では、アルミの弁当箱が南北の両方の池の中にあったのか、それともどちらか一方だったのかはっきりしない。 アルミニウム検出の原因がどちらなのか、しっかりしたデータとともに知りたいものである。
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●おわりに
地下鉄サリン事件・松本サリン事件の実行犯は、オウム真理教のメンバーと言われる。それはそれとして、これまで述べてきておわかりのように、問題は現在の公訴事実がすべて真実といえるのか、意図的に何か隠蔽されているのではないかという、疑問がある。 ここまで書いてきた内容で、一般に信じられている内容が事実ないし真実といかにくい違っているか、少しは感じていただけたと思う。一般に報じられている裁判報道がすべてを伝えているとは、私にはとうてい思えない。地下鉄サリン事件・松本サリン事件をオウム真理教メンバーのグループの単独犯行とする説に疑問を投げかける所以である。
(1999年9月)
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